霞が関ビル物語

霞が関ビル物語KASUMIGASEKI BUILDING STORY

弊社のオフィスは霞が関ビルの17Fにあり、眼下には外堀通りが新橋駅にむかって真直ぐに通っており、その先には汐留の高層ビル群や右手には東京タワーが見えます。

ご存じの通り、この霞が関ビルは我国で最初に建築された超高層ビルであり、地上36F、地下3F、竣工1968年。築後54年が経っても、少しも古さを感じさせることなく現在でも我国を代表するビルディングです。、この霞が関ビル界隈は官民一体となった再開発を2005年よりすすめており、合同庁舎の超高層ビルの2棟を含め、2008年に完成し、六本木ヒルズや東京ミッドタウンと異なる雰囲気を持ったオフィス街が誕生しました。そこで、この機会に私達社員一同が自慢としているオフィスや霞が関ビルディングについて数回に亘り、ご紹介したいと思います。

霞が関ビルディング建設のポリシー

霞が関ビル竣工

1968年6月 霞が関ビルディング竣工に際し、三井不動産株式会社は「霞が関ビルディング」と題した68頁からなる竣工パンフレットを作成しました。
その冒頭に社長の江戸英雄氏は「過密首都東京の再開発の見地から、時代の要請に沿った土地利用をはかるべく、研究を重ねた結果超高層ビルの建設を決意するに至った。しかし、何分我国の最初の企画であり、法制上の問題もありましたが官界、学界をはじめ各方面のご指導のもとに調査、実験を重ね、また設計者、施工者、材料、機器メーカー等の方々から利害を超越した惜しみないご協力を得て、幾多の新機軸を拓きながら、逐次解決をみるにいたったのであります」と述べられております。
又、この江戸社長のことばに続いて、副社長であり、霞が関ビル建設委員会会長の氷室捷爾氏は「“山林に自由存す”とすれば広場には人間性がある。はなはだしく人間疎外的な大都市の一般市民に開放された広場は人間回復の場として、珠玉の存在である」との名文から始まり、「建物の地上部分は建坪も比較的小さく、その位置も敷地の片隅に納め、その上許された範囲の容積を得るため階層を幾重にも積み重ねる― いわゆる“超高層”ビルの建設に踏み切ったのである。これはなにも奇を衒ってのことでなく、より価値多き広場をつくる目的のための決断であった。かくして、超高層ビルはいわば目的ではなく、手段であった。

大都市における人間性の回復―これが、霞が関ビル建設委員会のわれわれが企画を進める上においての、また、われわれ一同が期せずして一致したところの基本的モティーフであった」そして最後に「この1世紀は、物質文明の飛躍的発達によって、人間疎外的な傾向を強めてきたのに対し、つぎにきたるべき世紀は人間性回復の方向に進めたいものであるか、霞が関でのわれわれのこの仕事が、いくらかでも、それに関連を持ち得るならば、われわれ一同、望外の歓びとするところである」と結ばれております。紙面の関係で両氏の全文を載せることが出来ず、勝手に割愛させて頂き、誠に申し訳なく存じております。
「会社の利益を優先することなく、社会にとってどうあるべきかを考え、その結果として、超高層ビルの建設を決定され、このポリシーに賛同した多くの企業が損得抜きで結集し、我国の建築技術の粋を集めて完成した」と云う両氏の文章を拝見し、私はこれこそ「経営とは何か」「人生とは何か」の教訓であると心より感銘致しました。
今から50年以上前にこのようなポリシーの下に建築された霞が関ビルに本社があることを私は大変誇りに感じております。 (代表取締役会長 秋葉 忠夫)

参考文献/「霞が関ビルディング」発行:三井不動産株式会社

霞が関ビル竣工

大きく変わった霞が関ビルの環境

霞が関都市再生プロジェクト(霞が関R7プロジェクト)

私達は1日の3分の1以上の時間をオフィスで過ごします。それ故、オフィス環境は社員の環境満足度の重要な要素として考えております。しかも、このオフィス環境は会社のオフィスのあるビルだけでなく、その地域の環境も重要な要素と考え、2002年にオフィスを赤坂からこの霞が関ビルに移転しました。その後我国初の大規模な官民共同の市街地再開発事業が着工され、この度竣工致しました。移転当時には全く予期せぬ好事で、霞が関ビル建設のポリシーをそのまま継いだ如き事業がこの霞が関地域で実現したことに大きな驚きを感ずると共に日々このめぐまれた環境で過ごす一員として感激しております。
この様な環境の変化の中にあって霞が関ビルは、専属の管理事務所をビル内に置き、「霞ちゃん」の愛称の下に日本最初の超高層ビルとその誇りを失うことなきよう、常に時代にあったリニューアルを行ってきた結果、新築されたビルに劣らぬ機能を有していることは正に一級ビルの証しだと考えております。
尚、霞が関ビル周辺の再整備プロジェクトは「霞が関都市再生プロジェクト(霞が関R7プロジェクト)」・「東京倶楽部ビルディングの建替え計画」並びに「霞が関ビル低層部改修計画」があり、その全てが竣工しております。

◆ 霞が関コモンゲート
霞が関ビル竣工

この地区は古くは江戸城内にあり、日向延岡藩内藤家の上屋敷があり、その後日本の行政・経済の中心を担う官庁街として広く知られております。
2001年、当時の小泉純一郎総理大臣をトップとする都市再生本部が発足し、霞が関都市再生プロジェクト(霞が関R7プロジェクト)がスタートしました。
このプロジェクトは官民一体となって計画が推進されることになり、「官民共有の地」を意味する”Common”と新しい時代の入口をイメージさせる”Gate”を組合せ、この地区を”霞が関CommonGate”と称することになりました。又、中央官庁の行政機能と民間の業務を融合すると共に周囲の環境と共生することによって美しい景観を実現しようとするものであり、具体的には霞が関ビルを取り囲んで建っていた文部科学省庁舎別館、文部科学省庁舎の一部、会計検査院及び霞会館を取り壊し、その跡地の中央に広く開放的な霞テラスと右手には中央合同庁舎第7号館(西館)38F、及び同(東館)33Fのツインタワーが建設されました。

霞が関ビル竣工
◆ 安らぎを感じさせる霞テラス
霞が関ビル竣工

このプロジェクトの目的の一つに霞が関ビル広場、ケヤキ広場と一体となった人々に安らぎを与える都市空間を作ることであったと考えます。
従いまして、江戸城をしのぶ石垣を配し、多くの植樹を行い、何より人々を驚かせるのは、中央にある幅9m、高さ6m程の大きな階段です。
この階段の一段一段には日本の歴史が刻まれております。正面には霞が関ビルが高くそびえ立っており、他に例を見ない景観です。
尚、このコモンゲートの建設により、霞が関ビルの正面が大きく開かれましたので、遠く離れたJRの新橋駅からも外堀通りの正面に眺められると思います。

霞が関ビル竣工
◆ 東京倶楽部ビルディング新築計画
霞が関ビル竣工

東京倶楽部は1884年井上馨によって開設された社交クラブであり、当時は1880年に結成された交詢社とともに日本の社交クラブの草分けでした。
開設当初は鹿鳴館をクラブハウスとしていましたが、その後数回移転をし、1912年現在の霞が関3丁目に赤煉瓦2階建てを竣工しましたが、これも1945年5月の戦災で失い、1959年その跡地に地上6Fの東京倶楽部ビルディングが建てられました。
その後「霞が関都市再生プロジェクト」の一環として地上14階のビル建替え工事に着工、2008年秋に竣工しました。
尚、東京倶楽部のクラブハウスは現在、港区六本木に移転しております。

霞が関ビル竣工
◆ 霞が関ビルディング低層部改修計画

上記、霞が関R7プロジェクトに合わせ、霞が関ビル1Fの店舗ゾーンを新築の合同庁舎及び東京倶楽部ビルディングの新店舗と調和し、相乗効果が期待出来るような店舗ゾーンにリニューアルすべく工事中です。
又、霞が関R7プロジェクトにより、霞が関ビルの正面が大きく開放され、霞テラスとして、安らぎの場となりました。霞が関ビルとしてはこの機会に従来の霞が関ビル広場を霞テラスと一体感を持たせ、多くの人々が親しめるオープンスペースとすべく2008年9月に竣工し、この霞が関ビル広場は霞テラスと東京倶楽部ビルディングのケヤキ広場と一体化され、大都市東京にふさわしい洗練されたオープンスペースが誕生しました。(代表取締役会長 秋葉 忠夫)

株式会社新日鉄都市開発 ホームページ
社団法人東京倶楽部 ホームページ
三井不動産株式会社 ホームページ
参考文献/「新建築12月号」(発行:株式会社新建築社)

霞が関ビルには癒しのオーラがある

霞が関ビルには風格や威厳を感じさせるものがあります。
何故でしょうか。他のビルと比較して考えてみるといくつか思い当たることがあります。
高台に建っており、しかも真正面に広々とした霞テラスがあるため、東京では非常に珍しく霞が関ビル全体が一目で見えますので、圧倒感があります。また、遠く離れて外堀通りから眺める霞が関ビルは、正に日本最初の高層ビルとしての威厳を感じさせるものがあります。

◆ 多くある空間が人に和みと癒しを与えるビル
霞が関ビル竣工

霞が関ビル建設のポリシーは都市に空間を設け、人間に心の豊かさを与えるため、超高層ビル建築に踏み切ったことはvol.1で述べた通りですが、このポリシーは土地の利用だけにとどまらず、ビルの中にも癒しの場が多く設け られていることには感銘致します。
1FはビルフロントのあるロビーFへのエスカレーターと飲食街。ロビーFはゆとりある広いエントランス。中3Fにはリエゾンデッキ。3Fには郵便局、リエゾンプラザ、マッサージコーナーがあります。特に、他のビルとの差を感じるのはエレベーターの数の多さです。3F~12F、12F~20F、20F~27F、27F~35F、36Fと区分されており、ブロック毎にエレベーターは7~8機あります。それ故、待ち時間は非常に短く、至って便利です。また、洗面所もホテル並でビジネスの場としては、快適な環境です。
この様に、霞が関ビルは新しい機能と広い空間がビルの風格と癒しを感じさせていると思います。

霞が関ビル竣工
◆ 霞が関ビルは小さな町
霞が関ビル竣工

霞が関ビルの中には郵便局、病院(診療所)、歯科医院、コンビニエンスストア、、薬局に加え、多くの飲食店があります。
また、隣接する東京倶楽部ビル(KASUMI DINING)には、ステーキハウス、イタリアン、中華、和食などの専門店があり、又合同庁舎西館にも数々の店舗が出店しております。
そして、この霞が関ビル内のオフィスに勤務する人数は何と約1万人。正に小さな町と言っても過言ではないでしょう。

霞が関ビル竣工
◆ オデッセイのオフィス
霞が関ビル竣工

弊社のオフィスは17Fにあります。エントランスは、コーポレートカラーのダークグリーンをバックにした社章が、コンサルティング会社らしいイメージを来訪者に与えます。
コンサルティングや開発業務は、本来、お客様の企業に常駐し、担当の方々と一緒に業務を推進するものですが、弊社内でも業務が推進できるように十分なスペースを有しております。
広さは約52坪(170平方メートル)、会議室が大小2室、コンサルティングルームはフリーアドレスとして21のデスクと多機能大型デスク1脚。他に役員ゾーンがあります。眼下には外堀通りがあり、遠くにJRの新橋駅のガードが見えます。その先には汐留の高層ビル群、右手には東京タワーを眺めることができます。まさに東京のど真ん中、このオフィスでコンサルティングを通じて社会に貢献出来ると思うと、誇りと有難さを感じ、充実した日々を過ごせることとなると思います。

霞が関ビル竣工
◆ 40周年を迎えた霞が関ビル
霞が関ビル竣工

1968年に誕生した霞が関ビルは2008年4月12日で40歳となりました。この機会に、これからも霞が関ビル内で勤務する人々が誇りを持って働けるよう時代に即したオフィスビルとしての機能を更に充実すべく、現在、大規模な改修工事が進められております。この様なビル側の想いと40年の歴史が、私を含めここに働く人々に癒しのオーラを感じさせていると思います。
(代表取締役会長 秋葉 忠夫)

霞が関ビル竣工

歴史ある霞が関(そのI)

Vol.2でも述べましたが、オフィス環境は会社の所在するビルだけでなく、その地域の環境も重要な要素と考え、2002年にオフィスを赤坂からこの霞が関に移転しました。
そこで、今回は霞が関の歴史と現在の霞が関地域をご紹介することとします。

◆ 「霞ヶ関」の由来
霞が関ビル竣工

「霞ヶ関」という地名の由来には諸説あり、古くは日本武尊が蝦夷に備えて設けられたもので、雲霞を隔てる地であったことからつけられたと言われております。その後、江戸期以前、荏原郡の東境にあった奥州路の関名となり、江戸期以降には坂名として残っております。今でも外務省と合同庁舎2号館・3号館の間の坂を「霞ヶ関坂」と称しており、又「霞が関跡」という碑も建っております。
明治5年、東京府の地名として「霞ヶ関」となり、昭和42年の地名変更により現在の「霞が関」となりました。つまり、「霞ヶ関」は古い名称であり、現在の「霞が関」は昭和42年に生まれた新しい名称と言うことになります。
尚、「霞ヶ関」と言う名称は、地下鉄の駅名として現在でも使われております。

霞が関ビル竣工
◆ 霞が関の史跡
霞が関ビル竣工

(1)江戸城(別名:千代田城)

霞が関の史跡を述べるに際し、先ずご説明しなければならないのは、江戸城の存在です。つまり、江戸城を中心として大名をはじめとした武家屋敷が建てられたことは、ご存知のことと思います。
江戸城は、平安末期に秩父氏の江戸重継が江戸館として築いたことが始まりとされています。その後、江戸の地は扇谷上杉氏の所領となり、長禄元年(1457)上杉氏執事の大田道灌により、現在の原型となる江戸城が築かれました。
名将の誉れを一身に集めていた大田道灌でしたが、文明18年(1486)その権勢を恐れた主家の上杉氏に抹殺されてしまいます。以降しばらくは曽我氏などが城代として置かれ、その後上杉朝良が入城し、およそ20年間扇谷上杉氏の本拠となっていた江戸城ですが、大永4年(1524)北条氏綱により攻め滅ぼされてしまいます。
天正18年(1590)、秀吉の北条討伐により大軍に包囲され、当時の城代の川村秀重は降伏・開城に至り、同年8月関八州の太守となった徳川家康は、江戸城を本拠と決め拡張工事に入りました。文禄元年(1592)には西の丸を築城し、さらに、関ヶ原合戦後征夷大将軍となった家康は徳川幕府を開き、名実共に江戸城は天下の府城となりました。
その広さは、現在の千代田区がかつての江戸城にすっぽり収まるそうですから、驚くべき広さと言えるでしょう。尚、現在でも霞が関ビルの前の通りは外堀通り(東京都道405号環状線)と呼ばれ、外堀があった跡に沿って通っております。ご参考までに申しますと、現在の外堀通り(東京都道405号環状線)は港区新橋1丁目を起点とし、霞が関-赤坂-四ツ谷-市ヶ谷-飯田橋-八重洲-数寄屋橋、そして新橋2丁目が終点となっており、しかもこの外堀通りには現在でも多くの堀(濠)や川或いは橋の名が残っております。例えば、赤坂の溜池、紀尾井町の弁慶濠・真田濠、市ヶ谷の外濠、飯田橋、神田川、水道橋、昌平橋、数寄屋橋、新橋の土橋等であり、正にこの外堀に囲まれた江戸城の広大さを想定することができます。

霞が関ビル竣工

(2)霞が関は松平家の屋敷跡

元治元年(1864)当時の霞ヶ関の地図によると、現在の桜田門から虎ノ門交差点に至るまでの霞が関2丁目、3丁目は松平安藝守屋敷(現在の警視庁、合同庁舎2号館及び3号館)、霞ヶ関坂をはさんで松平美濃守屋敷(現在の外務省)、潮見坂をはさんで松平伯耆守屋敷(現在の財務省)、三年坂をはさんで内藤右近将監屋敷(現在の合同庁舎7号館及び霞が関ビル)と徳川側近の4大名の広大な屋敷で殆どしめられていたと記されております。尚、霞が関1丁目は海に近く地盤が悪い為か大きな屋敷はなかったようです。
いずれにしろ、今流に言えば徳川時代の超高級住宅街と言うことが出来るかも知れませんが、霞が関は徳川の時代から由緒ある地区であったことは事実です。

霞が関ビル竣工

(3)霞が関の基本形の誕生

時は流れ時代は明治となり、維新政府は天皇親政の目的のため、諸官庁を皇居周辺に配置しました。しかし、明治初期の官庁は武家屋敷を利用したものが多かったため、皇居周辺とは言え広範囲に点在しておりました。例えば、明治16年(1883)の地図でも大蔵省、内務省、農商務省は大手町、警視庁、司法省は八重洲にありました。当時、霞ヶ関にあったのは外務省のみでした。尚、NHK大河ドラマの天璋院篤姫が死亡したのが、奇しくも同じ明治16年(1883)でした。つまり、篤姫は新政府の官庁街を目にすることなく、他界したことになります。
明治21年、山尾庸三が内務省臨時建築局総裁に就任し、日比谷練兵場跡の海側半分を占める軟弱地は公園(現在の日比谷公園)とし、司法省は(現在の赤レンガ造りの法務図書館は平成7年に復原されたものです。)裁判所隣地に、残りの官庁は議院、参謀本部、外務省に囲まれた敷地への変更をしました。これが、官庁集中計画の実現案となり、現在の霞が関の官庁街の骨格となっております。

霞が関ビル竣工
霞が関ビル竣工

(4)国会議事堂の建設

明治20年に議院建築予定地が決定されて以来、建築に関し各方面より多くの意見が寄せられましたが、設計は懸賞募集にて行うこととなりました。大正7年、懸賞募集の規定を発表し、118通の応募の中から4通の当選者が決定され、その後この当選者案を参考にして独創的な近世代の様式を採用し、左右均衡にして正面中央に角錐型屋根の高塔がある重厚な議事堂の建設が、大正9年に着工し、17年にわたる工事期間を経て昭和11年に竣工しました。
尚、この国会議事堂は霞が関の官庁街を一望出来る高台にありますが、その所在地は永田町であることを念のため添えます。

霞が関ビル竣工

(5)昭和初期の官庁建設ラッシュ

関東大震災の復興と相まって、昭和初期には霞ヶ関一帯は空前の建設ラッシュを迎えました。即ち、警視庁庁舎、内務省庁舎、文部省庁舎、会計検査院庁舎等は全てこの時期に建設され、近代的官庁街として形成されました。

霞が関ビル竣工

(6)高層ビルから超高層ビルへ

昭和50年に入ると、官庁施設も超高層の時代へ突入しました。昭和29年に完成した合同庁舎1号館に続いて、建設された2号館から6号館までの中で、2号館、5号館、6号館は超高層ビルとなっており、又合同庁舎7号館(東館・西館)は平成19年に超高層ビルとして建設され、ビル前の広場は霞テラス、霞が関ビル広場、ケヤキ広場と一体となり安らぎを与える都市空間となっております。尚、この広場には江戸城をしのぶ石垣を配し、多くの植樹を行い、何より人々を驚かせるのは中央にある幅9m、高さ6m程の大きな階段です。この階段の一段一段には日本の歴史が刻まれております。正面には霞が関ビルが高くそびえ立っており、他に例を見ない景観です。

(代表取締役会長 秋葉 忠夫)

参考文献・参考サイト
角川日本地名大辞典13東京都(角川書店)
霞ヶ関東京散歩(宮田章著 中央公論新社刊)
国史跡 江戸城外堀ガイドマップ(千代田区立4番町歴史民俗資料館編集)
国土交通省(官庁営繕/霞が関の建物)
千代田区総合ホームページ
江戸切絵図

霞が関ビル竣工

歴史ある霞が関(そのII)

現在の霞が関地区は、皇居に向かって東西に内堀通りと外堀通り、南北には六本木通りと祝田通りに挟まれた区域を霞が関と呼び、一丁目、二丁目、三丁目に区分され、その中央に桜田通り(国道1号)があります。
又、桜田通りと六本木通りの間には霞が関坂、潮見坂及び三年坂と言う由緒ある坂道があり、更に年月を経て大木となった街路樹と各官庁の前庭の樹木が緑豊かにして風格のある官庁街を引き立てております。
そこで今回は、これらの大通りや坂道についてご紹介したいと思います。

◆ 歴史ある五つの大通り
霞が関ビル竣工

(1)桜田通り

霞が関の中央を通る桜田通りは大変広々とした大通りで、歩道にはプラタナスやトチの木の街路樹が連なり、しかも国道1号ですので我国を代表する道路と言えます。
ご存知の通り国道1号は東海道であり、日本橋を起点とし、大阪市梅田を終点としているのに何故霞が関を通っているのか興味を持ち、調べてみると大変面白いことが判りました。
1885年(明治18年)内務省告示の「国道表」にて国道路線に番号が付与された折、国道1号は「東京より横浜に達する路線」、国道2号は「東京より大阪港に達する路線」と指定されました。
つまり、現在の東海道と称する国道1号は当初は国道2号であったのです。従いまして当時の東京―横浜間は国道1号と2号が重なっていたのか実質的には2号はなかったのかは定かではありませんが、少なくとも現在の国道1号としての東京―横浜間の国道は無かったことは確かです。それでは、現在の国道1号はいつ生まれたかと言うと、1952年(昭和27年)新道路法に基づき、国道1号が国道15号となり、同時に国道2号が国道1号として指定されると共に、それまで全く別のルートで東京―横浜を通っていた国道36号が国道1号に指定され、はじめて東京を通る単独の道路としての国道1号が誕生致しました。しかし、それは残念ながら古くから言われている東海道とは全く別の道となったのです。現在、国道36号なるものは北海道札幌市―室蘭市を通っております。それ故、かつての東京―横浜間を通っていたと言われる国道36号を詳細に調べることが出来ませんが、おそらく桜田門を起点として桜田通りから第二京浜国道を経て横浜に至っていたのではないかと考えられます。
従いまして、現在の国道1号は中央区から大手町に出て、東京都道403号、日比谷交差点から国道20号と重なり、桜田通り、第二京浜国道を経て横浜に至ると言う大変迂回をすることなり、そして、横浜以降は東海道を大阪まで名実共に国道1号として通じていることが判りました。それまで、長年にわたり東京―横浜間の国道は1号と2号と番号がだぶってはおりましたが、何故1952年の新道路法による改訂時に日本橋を起点とした東海道を国道1号としなかったのかは疑問が残りますが、現在の国道1号が苦労の末に誕生した歴史を垣間見た気がします。

霞が関ビル竣工
◆ 歴史ある五つの大通り
霞が関ビル竣工

(2)祝田通り

霞が関地区と日比谷公園及び内幸町の間を通る道路であり、祝田橋より西新橋1丁目に通じております。祝田橋を起点としておりますので、通称祝田通りと呼んでおります。
この通りは皇居に向かって、右手には日比谷公園、左手には合同庁舎6号館、5号館、経済産業省等が立並んでおります。特に日比谷公園に面した辺りは風情ある道路です。又街路樹も銀杏で、歴史を感じさせるものがあります。

(3)六本木通り

霞が関地区と永田町の間を通る道路です。国会議事堂前を起点とし、六本木に通じており、通称六本木通りと呼んでおります。
この通りは皇居に向かって、左手には国会議事堂、国会前庭園、内閣府、首相官邸がありますので、その展望は圧巻です。又、右手には合同庁舎3号館、外務省、新霞が関ビルがあります。

霞が関ビル竣工
霞が関ビル竣工

(4)内堀通り

通称内堀通りと呼んでおりますが、その実態は東京都道401号、東京都道301号、国道1号、国道20号であり、その名の通り皇居の内堀に沿って殆んど1周しております。又、霞が関地区を通っているのは祝田橋から国会前までで、その距離は300m~400mと非常に短くはありますが、内堀通りの名にふさわしく美しい堀と皇居の森に面し、片側には赤レンガ造りの法務図書館や警視庁、その奥には国会議事堂が見えます。又祝田橋から平川門までは皇居前広場の中を通っております。正に日本を代表する風景に接することが出来る大通りです。

霞が関ビル竣工
霞が関ビル竣工

(5)外堀通り

通称外堀通りと呼んでいますが、この道路は国道ではなく東京都道405号であり、霞が関地区を通っているのは西新橋一丁目から溜池までの約500m~600mの距離に過ぎませんが、新橋方面より霞が関ビルに向かって一直線に通じている道路ですので、霞が関ビルと新築された合同庁舎7号東館、西館が一望出来、壮観です。
又、外堀通りと称されているのは、その昔虎ノ門、溜池、赤坂、牛込門、神田川まで14kmに及ぶ長大な外堀が築かれていたと言われており、この堀に沿っての道路であることから、この名がついたとのことです。

霞が関ビル竣工

改修なった霞が関ビル

霞が関ビル界隈の再開発プロジェクトは2005年に官民一体となった「霞が関コモンゲート・中央合同庁舎7号館新築工事」、続いて2006年には「東京倶楽部ビルディングの建替え工事」が着工され、いずれも2007年9月に完成しました。また、時期を同じくして着工した「霞が関ビルの低層部の増・改修工事」も2008年4月に目出度く完了したことにより再開発プロジェクトの全てが竣工致しました。
そこでこの改修された霞が関ビルをご紹介する本号をもって「霞が関ビル物語」の最終回と致します。

◆ 改修工事完了後の霞が関ビル
霞が関ビル竣工

(1)霞テラス

隣接する霞が関コモンゲート(中央合同庁舎7号館)と東京倶楽部ビルディングと一体となり整備された、霞が関ビル正面の広場を「霞テラス」と称し、超高層ビルに囲まれ、開放された広場が都心では初めて誕生しました。
この広場には花や樹木、噴水、壁面緑化等が配置され、緑地面積はこれまでの2倍となり四季折々の季節を感じることのできる快適な空間が造出されました。また、夜間にはライトアップされ、様々なパターンの噴水が見た目の爽やかさに加え、広場に賑わいをもたらし、更にはドイツ人アーティストにより作成された美しさと親しみのあるアート(ポリ ステラ)が置かれ、人々の心に豊かさを与え「憩」を感じさせます。
最近ではドラマ撮影でも利用されており、新たな東京のスポットになるかもしれません。

霞が関ビル竣工
霞が関ビル竣工

(2)霞ダイニング

霞が関ビルの低層部の増・改築工事の目玉でもある「霞ダイニング」が4月にスケールアップしてオープンしました。
改修前より霞が関ビルの1Fにはレストラン街がありましたが、この度の工事でより多種多様な店舗が出来ました。また、店舗の充実だけでなくちょっとした打合せや待合わせ等、多目的スペースとしての「リエゾンスクエア」やカフェテリアラウンジも併設されています。更には単にスペースが設けられているだけではなく、そこに置かれているソファやテーブルも白と黒で統一され、モダンな感じがします。また、霞ダイニングの天井やガラスの間仕切り等には霞をモチーフにした柄が施され、細部にまでこだわって作られており、このようなスペースはオフィスビルとしては非常に珍しく洗練されていると思います。

霞が関ビル竣工

(3)オフィスライフサポート機能

Vol.3で「霞が関ビルは小さな町である」と述べましたが、以前より3Fには郵便局、薬局、コンビニ、更には、リラクゼーションスペース等があり、非常に便利な機能が集まっていました。
特に「kiraku霞が関」には霞が関ビルで勤務する方が無料で利用できるマッサージチェアや仮眠ブースや快眠ルームまで用意されています。また、専門のセラピストにより非常に低価格でリフレクソロジーまで受けることができます。これに上述した霞ダイニングが加わったことにより霞が関ビルの住人は豊かで充実したビジネスライフを過ごすことが出来ると思います。

◆ 霞が関ビル物語の最終回を迎えて
霞が関ビル竣工

着工した当時には「完成したら六本木ヒルズや東京ミッドタウンと異なる雰囲気を持ったオフィス街が誕生するであろう」とは想像はしておりましたが、実際に完成し植樹された多くの木々が盛夏を迎え、緑を増してきた昨今、当初の想像をはるかに上回る「憩」を人々に与える広場が誕生し、これこそこの霞が関ビル建設に際し、建設委員会会長が「”山林に自由在す”とすれば広場には人間性がある。人間疎外的な大都市の一般市民に開放された広場は人間回復の場として珠玉の存在である」との名文から始まり「超高層ビルの建設はいわば目的ではなく、より価値多き広場をつくるための手段である」と述べられた言葉が正にここに実現したものと深く感銘しております。

霞が関ビル竣工
霞が関ビル竣工

この霞が関ビル物語も今回が最終回となりました。初回は2007年10月でしたので2年10ヶ月の間に毎月平均280名程の方にお読み頂き有難うございました。 顧みれば、弊社は設立3年にしてこの霞が関ビルに入居させて頂きました。それはオフィスが仕事をするだけの場ではなく、社員に心の豊かさを感じさせる場でなくてはならないと考え、移転して参りました。その結果、現在では全社員がこの霞が関ビルに会社があることを誇りに感じ、充実したビジネスライフを過ごしており、この充実感、満足感が自分の仕事への情熱の源泉になっているものと私は理解しております。
はからずも弊社の本年の新卒採用のキャッチフレーズは”仕事にヤリ甲斐を、人生に豊かさを”です。このキャッチフレーズを掲げることが出来るのも、環境に恵まれたオフィスがあればこそと思っています。
大変長いことご愛読下さいまして有難うございました。
(代表取締役会長 秋葉 忠夫)

参考文献
霞が関ビルディング(三井不動産株式会社)
Liaison[リエゾン]41(三井不動産ビルマネジメント株式会社 霞が関オフィス)

霞が関ビル竣工

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